歴史のご案内|徳川家康ゆかりのお寺、愛知県岡崎市の「是字寺 龍海院」
about由緒
日の下の人、
500年を紡ぐ夢の跡
是字寺 龍海院にご縁をいただき、誠に嬉しく心より感謝申し上げます。
当寺は名鉄本線「東岡崎駅」から徒歩で6分ほどの場所に位置しており、
街中でありながら美しい自然に囲まれた静かなお寺です。
禅宗の中でも曹洞宗にあたり、別名「是乃寺(ぜのじでら)」と呼ばれていますが、
その名称は、享禄3年、徳川家康の祖父である松平清康公が元旦に見た夢に由来しています。
幾多の兵たちが戦乱の世を戦い、そして散ってゆく姿を見守り続けてまいりました。
平和なこの時代にも、安らかに過ごせることへの感謝、そして分かち合うことを忘れず、
向かう未来でも祈りの心を忘れずに。
龍海院は、皆様の平和と幸福を絶えず仏様に願っております。
普く仏様の御光が皆様を照らし、優しい世となりますように。
合掌
松平清康公の初夢
Kiyoyasu Matsudaira‘s dream
壱、清康公は夢を見ゆ
- I. Kiyoyasu Matsudaira had a dream.
- 遡ること享禄3年、松平の清康公が20歳の正月の朝
「左手に是の字を握る夢」を初夢に見た。
Kiyoyasu Matsudaira had dreamed that he was holding the character “是” in his left hand in the 3rd year of the Kyoroku era, on a New Year's morning.
弍、その意を探し求む
- II. He sought its meaning.
- どうしても気になった清康公は色々な占い師や有識者に聞くが、どうにも分からない。
そこで耳にしたのが「龍渓院という名のあるお寺に、非常に徳の高い和尚さんが来ているらしい」と。
丁度いい。
城に来てもらい、真意を尋ねてみることにした。
He was so curious about its meaning that he asked fortune tellers and intellectuals, but they had no idea what it meant.
Then he heard, “A very virtuous monk is said to be visiting a certain temple named Ryukei-in".
He decided to ask the monk to come to the castle and inquire about the matter in question.
参、御礼に一寺を建立す
- III. He built a temple to him in gratitude.
- かの和尚である模外惟俊はこのように答えた。
「是という字は、日の下に人と書く。つまり天下人を意味する。その字を手中にしたということは、清康公、あなたか、遅くともあなたから
3代までにはきっと天下人が現れるであろう」
それに喜んだ清康公は、模外和尚に寺を建立してやることにした。
それが、現在の龍海院である。
The monk Mogai Isyun responded in this way.
“The character “是” means a person under the sun.
In other words, it means one who unify the whole country. If you have grasped this character, it means that the person will surely appear within three generations from you, at the latest.”
He was so pleased with his words that he decided to build a temple for the monk Mogai.
That is the temple, Ryukai-in.
歴史
history
- 享禄三年(1530)
- 元旦に清康「是の字」を掴む夢を見る。
二月に寺を建て、六月に完成。
八月に模外和尚が龍渓院から龍海院に入院。
- 享禄四年(1531)
- 清康が裏門、庫蔵、長屋を健立。
- 天文元年(1532)
- 清康が改宗を希望したが、大樹寺八代宝誉上人が悲しんで隠居されたため、断念。
代わって酒井正親が檀那となる。
- 天文十二年(1543)
- 広忠が当山の鎮守として白山社を健立。
- 天文十五年(1546)
- 広忠より、四方ほう寺の黒印状を賜る。
- 元亀二年(1571)
- 真喜姫の方が没し、境内に葬られる。
- 天正四年(1576)
- 酒井正親が没し、境内に葬られる。
- 転生十八年(1590)
- 家康の関東移封に伴い、境重忠が武蔵、川越(現前橋市)に移封しこの地で龍海院を建立した。
岡崎の龍海院は田中吉政により破却された。
- 慶長六年(1601)
- 本田康重により再建。
- 慶長八年(1603)
- 家康により朱印状が下される。
龍海院は「四至」表示で石高なし。
- 万治二年(1659)
- 水野忠善が鐘楼を健立。
- 元文二年(1737)
- 水野忠輝公が没し、当院で荼毘に付される。(墓碑有)
昭和の始まり、1926年龍海院の前の通り
- 昭和二十年(1945)
- 岡崎空襲で諸堂全焼、山門のみ残存。
昭和20年、岡崎空襲にて焼失前の龍海院
- 昭和三十四年(1959)
- 伊勢湾台風により墓地大被害。
- 昭和四十五年(1970)
- 本堂再建を依頼し、昭和四十七年に完成。
- 平成十年(1998)
- 道路拡張に伴い、山門が再建される。
龍海院から車で9分のところに
徳川家康の正室”瀬名姫”が暮らしたお寺
『總持尼寺』と『築山稲荷神社』がございます。
總持尼寺と築山稲荷神社のご紹介はこちら
Senahime and Soujiamadera瀬名姫と總持尼寺
- 数奇な運命を辿った築山殿、
失った家康の想い -
今を去る約800年前、順徳天皇の世のこと。
宮中に毎夜妖怪が現れ、人々を悩ませたと言います。
そこで本間三郎重光が命を受けて射ったのが「白狐」でしたが、
この直後に帝が病に伏せたところ、
どうやら件の「白狐」の祟りであるとされました。
その怒りを鎮めるため、
陰陽師より「山を築き、その頂に稲荷神社を。そして傍に一寺を建てよ。」として健立されたのが
ここ「築山稲荷 總持尼寺」であります。桶狭間の戦い以後、この總持尼寺に幽閉させられた徳川家康の正室、瀬名姫は
築山稲荷があるお寺にいることから築山殿と呼ばれ、
その人生を自らの夫の手によって断ち切られました。その生涯を閉じるとき、瀬名姫は何を思ったのでしょうか。
そして、自らの手で妻を死に追いやることとなった家康公の想いとは。当寺には、数多の喜びと悲しみが今も形として残り、未だ息づいています。
今川義元の娘、家康公の正室 “瀬名姫”
桶狭間の戦いにて、今川軍は織田信長に敗れ討ち死にしたことより、家康公は織田軍に味方することとなり、反して今川軍と敵対関係に。
それにより、瀬名姫との関係に亀裂が入り、不仲の一因になったと言われています。
岡崎城に入ることを禁じられた瀬名姫は、近くの尼寺にほぼ幽閉される形となり、傍に「築山稲荷神社」があったことから、瀬名姫は現在の「築山殿」と呼ばれるようになったのです。
築山殿もとい瀬名姫は移動の際に「駕籠」を使用していました。当寺には、かつて瀬名姫をお乗せした実物がまだ現存しています。
それ以外の多くの資料が貴重な文化財として指定され、今も大切に保管されています。
■總持尼寺へのアクセス ----
〒444-0015
愛知県岡崎市中町小猿塚37
アクセス/龍海院より車で9分
瀬名姫の最期
天正七年、浜松城にいる家康に呼ばれ、浜松へ向かう途中に佐鳴湖近くの竹藪で家康の家臣たちにより惨殺された瀬名姫。
その終わりに彼女が見た景色は。
最期の想いは一体なんだったのでしょうか。
岡崎、ここは歴史が力強くも静かに息づく街。